紆余曲折を経て“神パティシエ”になった男 ヒロミ「俺もなんか始めようかな」と共感
2024.10.15 13:00高校卒業後に職を転々としつつ、25歳で調理の世界へと入った西原さん。自らアルバイトで学費を稼いで専門学校に通い、他の生徒がサボりがちな中、真剣に授業を聞いていたという西原さんは「それがすごく今に」と語る。
専門学校卒業後はパリに渡り、フランス料理の基礎を学ぶ。そしてここで出会ったのが、“厨房(ちゅうぼう)のダヴィンチ”と呼ばれたフレンチシェフ、アラン・シャペル。彼の元でシェフパティシエとして腕を振るった西原さんは、帰国後も数々の有名店を渡り歩き、2001年にようやく自身の店を京都に出店した。連日大盛況となったが、65歳を迎えた2018年に突如閉店してしまう。それは一般的な定年と同じ65歳になったらやめようと、西原さん自身がオープン当初から決めていたことだった。
しかし、閉店後も西原さんの胸中には、アラン・シャペルからの忘れられない一言が残っていた。「キンゾー、この表面を触ったらピリッと割れて、中が柔らかいパート・ド・フリュイ(ゼリー状のフランスの伝統菓子)は作れないか?」といわれたのだという。フランスにいた頃からこのアラン・シャペルからの宿題を考え続けていたという西原さんはある日、京都発祥の寒天を使った砂糖菓子『琥珀(こはく)糖』を食べた時「あっ、あの時言ってたことがここにある!」とひらめいたという。このひらめきをヒントに、自分の店で菓子作りをしつつ宿題に取り組んでいたという西原さん。そしてついに『パート・ド・クルスティヤン』を完成させた。お店を65歳でたたむことは決めていたが、この味を多くの方に食べてもらいたいという思いからさらにブラッシュアップを重ね、66歳の時に現在のお店をオープンさせたのだった。
その後、実際に『パート・ド・クルスティヤン』を作る所を見せてもらった角田さん。西原さんは「いまだにこう作る上で、最終的にこれはシャペルさんが食べたらどんな風に言うだろうな?っていうのは、今もずっと常に考えてます。」「ほんとに私の神様っていうとアラン・シャペルです」と語っていた。